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[第3回 Obsessive Person ~OCDのグレートたち~]
強迫観念をそのままに、書き続けることで名著を生んだ
倉田百三(くらた・ひゃくぞう)

山田和夫
(医療法人和楽会 横浜クリニック院長、東洋英和女学院大学人間科学部教授)


強迫観念のなかには、手洗いや確認などの反復的な強迫行為を伴わないものもあります。
それを純粋強迫観念と言います。
不吉な観念や、合理的に考えればあり得ないような思い込みから抜け出すことができない苦しさは、経験した者でなければわからないかもしれません。
大正から昭和初期にかけて活躍した文学者の倉田百三も、そうした苦しみを味わった一人でした。
今回は、不安障害の専門医であり、歴史的著名人の病跡研究にも詳しい山田和夫先生に執筆していただきました。


目次
§1 旧制高校生の精神的支柱
§2 『出家とその弟子』の名声
§3 強迫観念に苦しむ
§4 苦悩から創造へ


§1 旧制高校生の精神的支柱

旧制高校という時代があった。青年が学問を意識しながら自由を謳歌した時代である。教授も学生も細かいことは言わない。授業に出るとか、出席を取るとかそんな野暮なことは言わない。教授も学生もまず人生の真理を考え、哲学的な読書を重んじた。夜は高下駄を履き、破衣、破帽で町内を闊歩し、よく酒を飲み、議論し、寮歌を歌った。バンカラと言われた。

町の人は、そのような若者達を好意とある種の敬意をもって厚遇した。実際、大物が育った。一高は現在の東京大学教養学部であり、二高は東北大学教養学部であり、三高は京都大学教養学部であり、四高は金沢大学教養学部であり、五高は熊本大学教養学部である。ナンバースクールと呼ばれた。今でも大きな業績を成し遂げた老人達が、旧制高校時代を懐かしみ、当時の格好のままで集り寮歌祭を開き、酒を飲んで大声で寮歌を歌っている。

細々した勉強はしなかったが、世界的な学問業績が上がった。たとえば森田療法で知られる森田正馬は第五高等学校卒である。森田はこの五高で、あの夏目漱石に英語を習っている。教授も素晴らしかった。その伝統が多少なりとも残っているのが京都大学である。学問の自由が残り、独創的な研究が生まれている。現代の最も優れた臨床精神病理学者の中井久夫氏は、当初、京都大学のウイルス研究所で研究していたウイルス学者であった。そんな自由が京都大学にはある。

その旧制高校に入学した学生は必ず読むべき本として伝えられた3冊の本があった。“三種の神器”とも呼ばれた。その3冊とは、西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の『出家とその弟子』であった。人間として生きていくべき基本的倫理観、実存哲学、死生観を、実感を持って学ぶことのできる、大変優れた日本的名著である。しかし、このような優れた名著が生まれる背景に、強い不安・うつの体験があった。



§2 『出家とその弟子』の名声

倉田百三の父・吾作は、広島県比婆郡庄原村(現在の広島県庄原市)で呉服商を営み、この家業で財を成した。百三は明治24(1891)年2月にそこで誕生している。姉4人、妹2人の女ばかりの家族の中で、百三はたった一人の男の子として寵愛と期待を一身に受けて育った。広島県立三次中学に入学、母方の叔母シズが嫁していた三次町の宗藤襄次郎家に寄寓、ここから通学した。宗藤家には実妹の重子も養女となって住んでいた。宗藤家は浄土真宗の熱心な信徒であり、この地方の真宗在家集団の有力者でもあった。

百三はシズの強い影響を受けて『歎異抄』を繰り返し読み、これに惹かれていった。『歎異抄』は、大正6(1917)年に刊行された『出家とその弟子』の素材である。内容は、人生の寂しさ、師との邂逅、信仰、煩悩、救済、恋の苦しみなどを激しい感情を内に潜ませながら、清明な論理をもって描いたドラマである。本の扉には、「この戯曲をわが叔母上にささげる」と明記されている。この本によって百三の名声は一気に上がった。

百三は家業を自分に継がせたいという父の願いを退け、明治44(1911)年、19歳のときに第一高等学校に入学、故郷を去った。しかし大正2(1913)年、22歳時に結核に罹患し、せっかく入学した一高も退学し、闘病生活を送るようになる。その後家業は倒産し、姉2人と母親が病死するという不幸を体験する。

大正15(1926)年、やっと結核から回復し、神奈川県藤沢市に転居、落ち着いた日々を送るようになる。しかし、ここから本格的な強迫性障害が起きるようになる。この頃、自然を観照することを実践していたが、観照しようとすると、事物は淡々として感動を与えなくなった。さらに全体を把握しようとすると、細部にしか注意が行かなくなった。部分しか見えなくなった。



§3 強迫観念に苦しむ

八百屋の前を通りかかると、知覚できるのは野菜や果物だけである。店全体がどんなものかがわからない。街には人や馬や、車が行き交っているが、そのすべてが統覚できない。時にあるがまま、無為自然体でいるときに全体を把握できることに気付くが、それは束の間であった。どうしても意識的執着となってしまう。

さらに、その部分が回転するようになった。めまいがして嘔吐し倒れた。事物を見ることに強い恐怖を感じるようになった。この恐怖の概念に怯えている最中に、「まぶたを閉じているときも、眼はまぶたの裏を見ている」という強迫観念にとらわれるようになった。眼は見続けているので、休むことはなく、眠ることはできないと思うようになった。不眠が続き、衰弱死していくに違いないという強い強迫観念にとわられるようになった。

自力で治すのは困難と悟り、何かこの異常を治す他力はないかとわらをもすがる思いで、東京神田の本屋街を探し回った。一冊の本にめぐり合った。京都済生病院院長の小林参三郎が著した『静坐』という本であった。必死な気持ちで一気に読み通した。「強迫観念は意志の力によってこれを治すことはできないが、静坐を続けるならば自分の力ではない自然の力が作用して治癒に至る」と書かれていた。腑に落ちる気がした。

取るものも取りあえず、京都の小林病院長を訪ねた。必死だった。小林の治療法は森田療法であった。絶対臥褥を続け、あるがままの心境を体得する方法である。小林の治療によって熟眠できるようになるが、別の強迫観念にとらわれるようになった。耳鳴りに気付いたのである。耳鳴りを意識しだしたら、その音はどんどん大きく感じられ、頭にガンガンと響いてきた。耳鳴りだけにとらわれるようになってしまった。苦痛に絶叫した。際限のない強迫観念がその後も続いた。

父親を看取った後、百三は昭和2(1927)年2月20日、森田正馬に直接治療を受けるべく、森田診療所を訪ねた。当時、森田は慈恵会医学専門学校の精神科教授であったが、同時に本郷区蓬莱町で診療所を開き、日曜日のみ診療を行っていた。森田が百三に伝えたのは、「次にここを訪れるまでの日常生活を、主観の一切を排して事実のままにしたためた日記にして、持参するように」ということだけであった。正馬は、宅診のたびにその日記を見て、簡単なコメントを伝えるのみであった。



§4 苦悩から創造へ

森田療法の真髄は、症者の苦悩は苦悩のままに、激しい苦悩を引きずりながらも、日常の生活は全うさせるというものであった。作家である百三には、強迫観念はそのまま受け留めながらも、作家として作品を書き続けるように言いつけた。

森田は百三の強迫観念について明晰な解釈を施している。「百三は観照の美学などと称しているが、これは観照する対象の美そのものを感得する心ではなく、観照に対する努力の快感にほかならない」。対象を眺めてそこに美を感得しているのではなく、美を快と混同して自分の快適な気分に陶酔し、耽溺しているのであるから、ふとしたきっかけでこの気分は容易に反転する。百三はこの反転に焦り、もがき執着して逆らい、強迫観念に至っているという理解である。

しかしこの理解は直接百三には伝えず、「苦悩を背負ったまま作家としての本分を全うせよ」と言うのみであった。このとき出来上がった小説が、畢竟の秀作『冬鶯(ふゆうぐいす)』であった。百三と彼の妹艶子は、京都の一燈園(この学校は今もあり、本来的な心身の修養教育を行っている)での求道の生活を志し、2人でそこに通うために、京都でつましい生活をしていたことがある。『冬鶯』は、このときの生活を回想して書き上げた小説である。

百三が主人公の頼介であり、ゆき子が艶子である。百三と親交のあった青年、湯川がもう一人の登場人物である。人生の不安についての3人の真摯な語り合いが、読む者の胸を打つ。求道を志して終生独身を守ることを兄に誓ったゆき子であったが、湯川との恋に落ち、頼介から次第に遠ざかっていく。頼介の寂蓼感と、しかしそれはそれでいいのだと自らに言い聞かせて揺れる心を、冬鶯の声を背景にしながら静かに語っている。

この作品を完成させると同時に、強迫性障害はこの小説の中に昇華されるように霧散していった。『冬鶯』は「強迫性障害の力」によって創出された小説であった。これ以降、以前に増して強健な百三が出現するようになった。強迫性障害を真に克服した後の健康さ強さであった。




*参考文献
『神経症の時代 -わが内なる森田正馬』 渡辺利夫/著 TBSブリタニカ 1996