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【体験者からのメッセージ】
「嬉至快晴(きしかいせい)」

南雲明彦(学習コーチアカデミー特別研究生)


私のOCD体験記第6回に登場し、OCD体験者座談会にも参加してくれた南雲明彦さんは、 2007年に、自らが卒業したインターネット高校に就職しました。
現在は、高校と同経営の会社で学習コーチングを普及する仕事に携わっています。
さらに、港区の特別支援教育の学習支援員として、公立小学校で発達障害を持つ子供たちの学習支援にも当たっています。
そんな南雲さんから、読者の皆さんへのメッセージが届きました。
強迫性障害に悩んでいる本人だけでなく、家族や友達、恋人が強迫性障害という人にも、 ぜひ、読んでもらいたいメッセージです。


目次
§1 私の強迫性障害
§2 暗闇の中から
§3 家族や周りの人達へ
§4 未来の自分へ


§1 私の強迫性障害

「障害」ってそもそもなんなのでしょうか?この言葉の定義って非常に難しいですよね。なんでこのような話をいきなりしたかというと、OCDは「強迫性障害」だからです。他にも障害という名のものが、たくさん私達の生活の中には溢れています。まずは、「障害」という言葉を聞いて、イメージするものはなんなのでしょうか?きっと、あまり、いいイメージではないのかもしれません。「障害」と聞くと、やはり、マイナスなイメージがつきやすい。

強迫性障害の説明をする時に、不潔恐怖で手を洗い続けているのならば、それは、「変人」扱いされて、いじめの対象にもなりやすい。頭の中はぐちゃぐちゃで、手を洗いたくても洗面所に行けないとストレスになり、それがお腹にも響いてきて、痛くて、何度もトイレに駆け込んでしまう。でも、その後度に、手を洗うのに時間がかかっていたら、出かけようと思っても、目的地まで到着する前に、つらくてどうしようもなくなる。そして、家から出るのが恐くなる。この気持ちって言い表すことがなかなかできない。

私の場合は、ご飯を食べることすら、つらかったのです。ご飯粒が手に少しでもついただけで5分の手洗い、トイレに入っただけで20分の手洗い、外出しようと準備するだけで、一つの動作の度に手を洗い続けました。「この服は汚れているのではないか?」「きちんと洗ってあるのか?」「洗濯機自体は、きれいなのか?」「洗濯機に入れたのはいいけれど、きちんと全部洗えているのか?」……など、書き出せばきりがない。こんなことを、外出前に考えていたら、疲れきってしまうと思いませんか?

もし、外出するとしても、出先にある水道の蛇口の種類にも気を使わないといけない。手を洗いやすい蛇口と、手を洗いにくい蛇口がある。そして、一度は試して把握している蛇口でなければ、「もし、汚れた手を洗っている時に、その水がお気に入りの服についたら、捨てるしかない」。実際、捨てた服はたくさんあった。もう、生きることで精一杯だった。

私は病院で、「強迫性障害」と診断はされたが、薬を処方されるばかりで、とても回復の兆しはなかった。もちろん、たまたま、相性が良い医師や薬とマッチしなかっただけなのかもしれない。だけれど、自分はなんだか、昔から、人前に出ると笑顔になってしまう癖があった。これは自分のチャームポイントだった。でも、それが邪魔をして、心とは裏腹に、態度や発言はものすごく普通に見えたようで、伝えたいことも伝えられず、医師からは、「甘えてるんじゃない!」と一喝された。確かに私は甘えていたのかもしれない。しかし、どうしようもできなかったから、病院に駆け込んだのだ。

家族や友人に代弁してもらうのも一つの手ではあるが、それって、自分の思っていることを、人が伝えているだけで、結局の所、それは真実ではない。やっぱり、自分の気持ちは、自分で表現できるようになった方がベターだと思う。なぜなら、最後は自分自身と向き合うことが解決の糸口になるからです。自分の周りにいる人達は、僕らが走るための道を舗装してくれたり、コースを示してくれたり、応援してくれたり、環境を整えてくれます。しかし、そこで走るのは、自分自身なのです。そこで、苦しくて、転んだりしてしまっても、「誰かが手を差し伸べてくれる」なんて思っているようでは、強迫性障害は、きっと、「障害」として、自分の前で、道を塞ぐでしょう。



§2 暗闇の中から

私は、この強迫性障害を持ったことによって、死と向き合った時間があった。でも、死ぬのって本当に怖くて、命を絶つことはできなかった。でも、生きていても、苦しくて、先が見えなかった。誰も未来のことなんて、教えてくれなかった。出る言葉は、みんな、「若い頃の1年や2年、大丈夫だよ」って。でも、私にとっては、とても大切な青春時代だったのだ。今は、「一生勉強、一生青春」と思えるけれど、その当時はそんなふうに思えなかった。そこで、とことん、自分と向き合ってくれる人は、残念ながら、いなかった。でも、これは、その人達が悪いわけではない。「強迫性障害という病気が知られていないこと」がよくなかったのです。知らないが故に、どうしたらいいかわからなかったのだと思います。

血が飛び散っても手を洗うことで、生きている心地を味わっていた。そんな自分が大嫌いだった。布団の中で、ずっと、頭の中に「あの時、なんであんなことを言ってしまったんだろう?」「あそこで、誰が触ったかもわからないものに触ってしまった」と、過去の出来事が、まるで自分を責めるかのように頭を駆けめぐる。すべてが、手を洗う原因になっていた。いつも確認ばかりしていた。そして、もともと、学習障害(LD)があったので、本を読むことすらできず、家の中のものに触れることもできず、そして、自分自身にも触れることができず、布団の中に潜っていることしかできなかった。本当に悔しかった。自分自身が、消えてなくなりたいと、本気で思った。でも、消えることすらできなかった。こんなにも人って泣けるのだって思った。

だから、未だにその後遺症は残っている。手洗いや強迫観念を隠すのがうまくなったことが大きいと思うが、確実に状況は好転してきている。それは、「環境整備」と「自分自身が変わること」が重要だったのだと思います。「環境」とは、自分自身を丸ごと受け止めてくれる居場所のこと。そして、「自分が変わること」は、自分の中で「捉え方を変えていくこと」なんです。



§3 家族や周りの人達へ

もし、このような人達に出会ったら、そんな人達皆さんに伝えたいメッセージがあります。それは、「どんな物事にも表と裏がある」ということです。強迫性障害であれば、確かに困った人達であるのは事実です。いちいち、強迫観念に支配され、言動などおかしくなり、「こんな人と一緒にいたくない」と思う人達もたくさんいると思います。確かにこれは、ごもっともで、強制的に一緒にいる必要はないと思います。

しかし、そんなふうに、どうしようもない強迫観念に潰されそうになっている人を、ほうっておけないという人がいれば、心に留めてほしいことがあります。それは、彼らは神経質な人達なので、あなたを傷つけることがたくさんあるかもしれないということです。そんな時は、あなた自身も、きちんと心のメンテナンスをしていないと、あなた自身も傷つき、ぼろぼろになっていきます。

共倒れはもっとも危険です。癒してあげたいのなら、まずは、あなたが癒されていてください。そのための時間を、自分自身に作ってあげてください。彼のことが心配でどうしようもないかもしれませんが、一人で抱え込まないでください。そして、当事者の人達も、自分達だけつらいなんて、思わないでください。みんな、それぞれ、苦しい思いをして生きています。だから、自分達だけが被害者や可哀相な人達だと思ったら、それはなにか違う気がします。ただ、その痛みのポイントが違うのです。

これは、今だから冷静になって話すことができますが、当時、両親が私のために必死で様々なことを試みてくれました。病院に入院したり、カウンセリングを受けたり、同じような境遇にいる人達と話す時間を作ってくれたりしました。それでも私は毎日「死にたい」と連呼していました。そんな自分がすごく嫌でしたが、そうするしか、生き続ける方法がなかったのです。でも、それは、私にとっては「生きたい」という本心を素直に言えなかっただけだったのです。

しかし、この私の言葉で、親の心がぼろぼろになったのは事実です。私にふり回されっぱなしになってしまい続けたからです。このように、親御さんもきちんと自分達自身を守ってもらわないと、一家で共倒れになります。特に、母親がそのストレスから、家庭の循環機能に不具合を生じさせてしまうと、大変なことになります。一家で歯車が狂い出してきます。この状態にはできるだけなってほしくないのです。

偶然というよりは必然だったのかもしれませんが、私の両親に手を差し伸べてくれる人達がいたからこそ、今、私達一家はこうして、心から笑顔でいられるのだと思います。胸を張って、過去の想いをお伝えできるのだと思います。やっぱり、親には笑顔でいてもらわないと困りますよ!だって、子どもは、その姿を見て、育つのですから。その顔が曇っていたら、どんどん、自分を責めてしまう。



§4 未来の自分へ

そして、今は、苦しいかもしれないけど、「強迫性障害になって、よかった!」って、思える日が必ず来ます。強迫性障害があったって、いいじゃないですか。不器用だっていいじゃないですか。だって、無理して、自分の特性を消す必要がどこにあるのですか? 自分にしかない特性を、なくす必要がどこにあるのですか?それが、まぎれもない世界でたった一人の「あなた」なのです。誰一人として、代わりがいない、尊い存在なのです。

もし、治療を受けるということであっても、あくまで、自分の意志で診察を受け、治療に臨むことが大切と思います。あくまで、主張の主体は自分自身であることを明確にして、「どうしたらいいのか?」「誰に相談すればいいのか?」「今、自分にできることはなんなのか?」、たくさん、自問自答してください。その先には、きっと、キラキラ輝いている自分が待っているはずですよ。



●あなたへのメッセージ

痛みを知っている人間こそ、他人の痛みがわかります。
自分と心から向き合ってきた人間ほど、自分の活(生)かし方を知っています。

その「障害」を乗り越えた時に、新しい自分と出会えるなら、その障害すら、愛せると思いませんか?

この世にあなたが生きていることは、絶対意味があるのです。
だから、慌てないで、未来を一緒に模索していきましょう。あなたが地べたを這いつくばってでも、生きようとしているのなら、必ず手を差し伸べてくれる人達が現れます。その人達に甘えてはいけないけれど、頼ることは大切です。恩は元気になってから、返していけばいい。その人に直接返せなくとも、社会で同じように苦しんでいる人達へ、同じように、手を差し伸べていけばいい。

どんな状況にある人であっても、必ず、そのまま人生が終わるということはないのだと思います。どんなに格好悪くても、恥ずかしくても、自分らしく生きていける方法は必ずあります。そのためには、「一期一会」を大切にしていくことが、今後の人生を切り開いていく鍵になるのだと信じています。

人が生きるって、とても大変なこと。でも、ただじゃ転ぶわけにはいかないですよね。
大丈夫。あなたを救ってくれる人は、必ず、現れる。そして、自分らしい人生を送れるようになってくるでしょう。

人が生きていることって、「雨のち晴れ」。
嵐が起きても、最後に晴れれば、嵐の大変さを知っているのだから、すべての物事に感謝し、優しくなれる。
これを私は、「起死回生」ではなくて、「嬉至快晴」と呼んでいます。
今の環境や状況に嬉しさや愉しさを持つことができるようになれば、心は、快晴になる。

最後に一言。
ゆっくり、でも、確実に前を見て、歩んでいきましょう。
あなたにとっての、ヒーロー(味方)はすぐそばにいるのですから。

感謝を込めて。





*参考リンク

●私のOCD体験記第35回 「<もう1人の自分>と一緒に歩いていく」

●OCD体験者座談会 第1回(第5回まであります)