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【私のOCD体験記】 第6回 南雲明彦さん
<もう一人の自分>と一緒に歩いていく



強迫性障害のために学校に行けなくなったら、世間で言う不登校。
家で症状と闘っていても、世間から見たら引きこもり。
苦しみの時間は、ただ虚しいだけの時間なのでしょうか。
「このままでは終わりたくない!」という強い想いが、南雲さんの人生を切り拓きました。
もしかしたら南雲さんの5年間は、なんとなく進学して就職するような人生に比べれば何倍も密度の濃い、「生き方の大学」だったのかもしれません。


1. 気が狂いそうだ!入院するしかない
2. このままでは終わりたくない!
3. 一人暮らしへの挑戦、そして挫折
4. 再び自立。ネット高校へ
5. 支えてくれる人たちとの出会い
6. 悪いことばかりではなかった
7. 可能性を求めて


22歳の春を迎える南雲さん。目黒川のほとりで
 

1. 気が狂いそうだ!入院するしかない

僕が強迫性障害と診断されたのは18歳のときでした。高校2年生だった17歳の11月、僕は精神的な不安から学校に行けなくなりました。実はそれまで、文字が読みづらいという症状(LD:学習障害)があり、記憶力でなんとかごまかしてきたのですが、その頃になると、大学受験に集中する勉強の進度についていけなくなりつつありました。それが原因で、うつ状態に陥ったのです。

最初は2、3週間休めば治るだろうと思っていたのですが、夜眠れず、不安がどんどんひどくなっていき、しまいには震えが止まらなくなりました。このままではだめだ、気が変になってしまうと思って、自分から親に精神科の病院に入院させてくれと言いました。

僕の家は新潟県のスキー場が多くある観光地にあります。地方だと、精神科の病院は多くありません。大きな精神科病院は自宅から車で40分もかかりましたが、親も最初はどうしたらいいのかわからないという状態だったのでしょう。今から思うと決断が少し速すぎたような気もしますが、とにかく苦しくて、このままでは生きていられない、もうそれしか方法がない、という状態で入院となりました。最初の診断は、うつ病とパニック障害などでした。

クラスの友達は、僕がさぼっているんじゃないかと思っていたようです。僕はさぼって遊んでいると思われたくなかったので、クラスのみんなに宛て手紙を書きました。「こういう診断を受けて精神科の病院に入っている」と、はっきり書いて、母から先生に届けてもらいました。みんなびっくりしていたそうです。でもあえて、そっとしておいてほしい、手紙はよこさないでくれと頼みました。

なにしろ僕は、三度の飯より学校が好きだったのです。部活でテニスをやっていて、スポーツの好きな普通の高校生でした。どちらかというと前に出たがるほうで、生徒会の役員をやったり、学級委員もずっとやっていました。だから、「なんで俺が学校に行けないようなはめになるんだ」とずっと思っていました。先生も、僕が精神科に入院したと聞いて、「嘘じゃないか、なんであいつが?」と思ったそうです。

自分から望んで入った病院でしたが、認知症のお年寄りなどと一緒の6人部屋は、僕にとって厳しい環境でした。中には何日もお風呂に入っていない患者さんもいます。病院自体も隅から隅まで清潔なわけではないと感じられます。出してほしくて自傷行為をしてしまい、重度の病棟に移されそうになりました。まずい、そこに入ったら、もう二度と出られなくなるのではないか。それが怖くなり、結局、1か月で退院することにしました。

退院して一旦家に戻りましたが、その後も症状はよくなりませんでした。薬の副作用もあり、意識が朦朧としているときも多く、とても学校に行けるような状態ではありません。そこで、高校3年から定時制高校に転入しました。ところが勉強どころか、自転車で1時間もかかる高校に通うだけでせいいっぱいで、2か月しか通うことができませんでした。強迫性障害の確認行為が出始めたのは、この頃からです。お風呂に入れば本当にきれいになったのか、家じゅうが清潔か、自分の服装はこれでいいのかと、どうでもいいことが気になりだしました。

高校3年の後半には、手を洗い続けたり、確認作業ばかりして、生活がまともに送れない状態になりました。お風呂に1日3回も入りなおしたり、ボディタオルやいろんなものを洗浄する。そんなことをしているうちに疲れきってしまう。目ヤニや汗、ツバなど、自分の体から出てくるものが気になり、鼻水などに触ろうものなら、手を洗い続けなければ気がすまない状態でした。

一日じゅう神経をすり減らし、緊張しているので、精神的な疲労感が強く、睡眠時間は長くなりました。治療を受けると一時的には改善するのですが、長続きしません。頭にいろいろなことが浮かんできて集中できず、本も読めない状態でした。元から読み書きが困難になる障害を抱えていたのですから、なおさらでした。このままでは学校にも行けない。みんなは卒業して進学や就職をしていくのに、自分は汚れが怖くて家を出ることもできない。僕はすでに、世間で言う「不登校」「引きこもり」の状態でした。

 

2. このままでは終わりたくない!

高校3年の冬、2回目の入院となりました。その病院では、個室に入りました。しかしそこでの生活も、薬を飲んで、眠って、食事をして、あとはときどき医師の面接を受けるだけ。その病院はいい病院で、看護師さんも話をしてくれましたが、治る兆しはなく、これは長期的になりそうだ、このままでどうなるんだと、あせる気持ちが募っていきました。

病院の医師に、自分の心の中で起こっていることを全部正直に言えたかというと、すべては話すことができませんでした。自分でも馬鹿馬鹿しいようなことが多く、頭の中が混乱していて、整理するには相当時間がかかったからです。薬はたしかに効きましたが、薬の作用で感覚が鈍くなると、今度はその鈍くなったことが気になってしかたがないという悪循環でした。

なんでこんなことになるんだろう。なんとかこの状態を抜け出せないのか。退院したら、また通院して薬をもらい、薬を飲むだけで、あとは何もすることがない。これで治るのだろうか……。

「もういやだ! 絶対にこのままでは終わりたくない!」
薬の作用で頭が朦朧としながらも、心の中では毎日、そう思っていました。僕は珍しいタイプなのかもしれませんが、もともと性格的に行動的なほうなのです。どうしたらいいのか、誰も教えてくれる人もいないなら、自分でやるしかない。
「とにかくいろんなことをやってみよう。それで駄目なら死ぬしかない」
親にも協力してもらって、自分の問題に対応してくれそうなところがないか、なんとか治る方法がないか、調べ始めました。

そのひとつとして受けてみたのがカウンセリングです。合宿して徹底的に向き合ってくれるところをみつけ、2週間ほど合宿カウンセリングを受けました。そこは東京のクリニックとカウンセリングルームで、アパートの一室を借りた落ち着いた雰囲気の場所でした。そこでは、まず自分の修正したい問題点を10項目ぐらい書き出し、それがひとつずつクリアできるように、主に催眠療法を行いました。

結果、それで強迫性障害の症状がなくなったというわけではありませんが、その後の自分のためにはとても勉強になった体験でした。1年後、2年後に、「ああ、あれを受けていたから自分はこういうふうに考えを整理できるようになったんだな」と思ったことが、ずいぶんあったからです。

 

3. 一人暮らしへの挑戦、そして挫折

学校好きの自分にとって、一番大きな問題は、病気のために学校に行けなくなったということでした。なんとか高校を卒業だけはしたいと思いました。同級生が大学進学などで上京する頃、もしかしたら、自分も生活環境を変えればよくなることもあるかもしれないと思い、通信制高校に入りなおして一人暮らしを始めることにしました。探し出した通信制高校は、東京にサポート校があったので、そこに通いやすいところにアパートを借りました。

もちろん、不安はありました。親も心配しましたが、何かあったらすぐに飛んでいくという覚悟で僕を送り出してくれました。この頃は、外に出て買い物をすることすら大変でしたから、日常生活のすべてが訓練みたいなものです。外に出ること、買い物をすること。買い物をすれば、後ろに並んでいる人が気になり、店のカウンターの汚れが気になる。お金は誰が触れたかもわからない。洗濯物にも触れないので、洗うことができず溜まっていきます。結局、この初めての一人暮らしは、3か月ほどで断念してしまいました。

また実家に戻った僕は、世間の人に何か言われているんじゃないかと気になり、人と目を合わせるのも怖いような状態でした。自分は一人暮らしもできない、進学もできない、何もできない。このままではもう駄目だ、と思ったこともありました。

 

4. 再び自立。ネット高校へ

その後1年間、家での生活が続きました。家にいると不潔恐怖などが表れやすくなるため、外出をしていることも多かったものです。そうしないと、過去のことがフラッシュバックして余計にしんどかったからです。しかし、家にいて初めてわかったことは、親の生活でした。元気な頃は、家に帰ればご飯が用意してあって、それが当たり前だと思っていました。それがどういうふうに準備して作られたものなのか。僕の両親は共働きですが、親たちがどういう生活リズムで生活を支えてくれているのかが、よく見えてきました。

幸い親たちも、「この子はこのままでは終わらないだろう」という目で見てくれていたので、有難かったと思います。「お金は自分たちがなんとかするから、お前は治すことに専念しなさい」と言ってくれたので、それなら自分としてもできる限りの努力はしようと思いました。しかし、相変わらず何かやろうとしても、突拍子もないことが頭の中をかけめぐって集中できず、軽い作業もミスの連発で、疲労感が強く、就学も就業もできない状態が続きました。

平成17年になって、インターネットで学べる高校があることを知りました。通信制高校はスクーリングがありますが、ネット高校はスクーリング日数が少なく、負担が軽くなります。通信制高校も続けられず挫折していたので、ここでは中退はできないと思いました。この高校に入学を申し込んで再び上京し、都内に部屋を借りて一人暮らしを始めました。

二度目の一人暮らしは、両親の計らいで、東京の知り合いの方々にサポーターになってもらいました。最初のうち、食事を買いに行けないときには買いに行ってもらったり、掃除をしてもらったりと、衣食住の世話を助けてもらったことは、どれだけ有難かったかわかりません。

 

5. 支えてくれる人たちとの出会い

入ったネット高校はコーチング制度をとっており、僕にも担当のコーチがつきました。コーチはビジネスコーチングを専門にやってこられた、とても熱心な方で、本当に力を注いでくれました。この高校に入って一番よかったのは、この方のコーチングを受けられたことです。これによって、自分は今後どうしたらいいのかが、少しずつ見えてきました。

自分の今の生活を具体的に把握し、強迫症状がどんなときに出てくるのかを知ること。何かいやなことがあったときと、強迫症状がひどいときとは関係があるのか、ないのか。強迫行為をしないように、なくすようにすればいいのか。なくそうとすると逆にたくさん出てくる傾向がある。それなら、その強迫観念や強迫行為とうまくつきあっていくにはどうしたらいいのか、などなど。

コーチの方は、僕の病気についても調べてくれて、さまざまな働きかけをしてくれました。40代前半の男性ですが、僕にとって兄貴のような存在と言ってもいいかもしれません。プライベートでもかなりかかわってくれたのです。医師やカウンセラーの方だと、どうしても病院だけでのかかわりになりがちですが、それ以上に歩み寄ってもらうことができました。

コーチング自体は、本人の潜在的な可能性を引き出しながら自発的な行動を促し、目標達成を支援するコミュニケーション技術で、カウンセリングとは違います。むしろ、精神的に落ち込んでいる人がコーチングを受けると、逆効果になる場合もあるそうです。しかし、僕の場合は、コーチングを受けたことも、よい影響をもたらしてくれました。

実際に、支えになる人がいてくれるということだけでも、不安がかなり消えてくるものです。コーチングを受けて、物事の考え方を学んでいくうちに、僕の症状はだいぶ減ってきました。全部なくなったわけではありませんが、強迫症状を否定するのでなく、その中で生活していくことを考えるようになりました。コーチとは、僕が高校を卒業した今でも行き来があり、支えになってくれています。

カウンセリングはずっと受けていましたが、あるカウンセラーに言われた言葉も、自分の考え方を変えてくれました。
「病気ととらえると沈んでしまうけど、逆に言えばほかにない個性でもあるわけでしょう。そういう<もう一人の自分>みたいなものと、共存していくことができたらいいんじゃない? そうしたら、けっこういいパートナーになるかもしれないよ」

この言葉は、何よりも自分を支えてくれたと思います。それまでなくそう、なくそうとして、「でも消えない、どうしよう」と堂々巡りしていた自分の暗闇に、一筋の光が見えた気がしました。「強迫性障害」という名の自分の分身が、同じ屋根の下に住んでいると思えばいい。無理になくそうとしなくてもいいんだ、と。

 

6. 悪いことばかりではなかった

強迫性障害になって、引きこもりになり、家族にも迷惑をかけましたが、僕は今、悪いことばかりではなかったな、と思っています。ひとつには、僕の病気のおかげで家族がまとまり、すごく仲良くなりました。兄が一人と妹が一人いますが、「この子をなんとかしなくては」ということで家族が一致団結して協力してくれました。僕は幸せな環境にいたんだな、と思います。

家にいた頃、僕の症状を軽くするためにと犬を飼いはじめたのですが、その犬が今はアイドルのような存在になって、家族を楽しませてくれています。もちろん親も最初は混乱していましたが、僕と一緒にいろんなものにつきあって、いろんな経験をし、こういう子もいるんだということがわかって、さらに優しくなってくれたような気がします。いい意味で僕に期待をしなくなったというか、とりあえず健康でいてくれればいい、という考えに変わってきました。

病気になったことがきっかけで、親といろんなことを本音で話し合うことができました。一人暮らしをするための仕送りをしてくれることに関しても、どんな気持ちでお金を送ってくれるのか、父親の気持ちを直接聞くことができたのは貴重な体験でした。父は「とりあえず、お前はまず元気になって、働けるようになったら働いて返してくれればいい」と言うのです。「自分たちのほうが先に死ぬんだから、お前が30歳、40歳になったときに自立できていなかったら、そのほうが困る。いま自分たちは2人とも働いているんだから、多少それを使っても問題はない。それが自分たちの使命だと思っている」と。

順調に行っている兄や妹に比べ、自分は家の中ではお荷物なんじゃないかと思っていましたが、そうではないんだ。親に愛され、大事にしてもらっているんだと、本当に実感できました。親を泣かせて、初めて親の有難さが本当にわかったというのでしょうか。もし病気にならなかったら、そういうことに気づくのが相当遅かったのではないかと思います。

確かに、病気の部分だけを見てしまうと、いいことはありませんでした。どうでもいいことを考えて苦しんでいるうちに、同級生たちはどんどん前に進んでいく。勉強して大学に進んで、今年は卒業して企業に入ろうとしています。でも、それがすべてなわけではない。こういう経験をしたからこそ、考えられたこともあるんだなあと、今は思えるのです。

 

7. 可能性を求めて

ネット高校に入ってもうひとつよかったのは、活動範囲が広がったことです。高校がテレビに取材され、ほんの数分だけですが、僕もテレビに出ました。このことをきっかけに、新聞などの取材を受ける機会が増えました。「自分は不登校だった」と、堂々と顔を出して発言する当事者はまだ少ないらしく、体験を話してほしいということで、不登校や引きこもり、軽度発達障害の方たちを支援している団体などからも声がかかります。

先日も50人ぐらいの人を前に、自分の体験を話しました。強迫性障害のことも、正直に話します。「この手を見てください。こういう事情だったんです」と、洗いすぎて皮膚がボロボロになった両手を皆さんに見せます。

こういう活動を通じて知ったのは、自分と同じように、なんらかの理由で学校に行けなくなった子が、世の中にはたくさんいるということです。そういう子たちに、少しでも明るい気持ちになってほしい。些細なことかもしれないけれど、今の自分を見せることで、そういう子たちの助けになればいいんじゃないか。それが自分にできることなんじゃないか。もしかしたら、これが僕にとって「障害」という名の神様からのプレゼントなのではないかな。そう思うようになったのは最近のことです。

人は、嫌な経験は忘れたいものだと思いますが、忘れてはいけないと思うのです。たぶん、この病気になったことが僕の原点であり、それによって、僕はいろいろなことを知ることができました。人の支えの有難さを知り、親の有難みも知ることができたのです。僕は働いた経験も少ないし、大学にも行っていません。でも、この体験が今の僕を作ってくれたのだと思っています。

この体験記を読んでくれる強迫性障害の人たちにも、僕が言えるのはそのことです。<もう一人の自分>と対峙していくのは、すごくしんどく、つらいことです。でも、強迫観念というもう一人の自分を受け入れて、いい方向にとらえていけたら、絶対に改善の道は開けるし、強力なサポーターが現れてくれるはずです。

あせってはいけないけれど、諦めてはいけない。
「絶対にこのままでは終わらない。何がなんでも生きてやる」
そんな想いが自分を変えていくはずです。
薬に頼りすぎてもよくないし、人に頼りすぎてもよくない。もし日常生活がうまく送れていないなら、まず自分の足で立つことが目標でしょうし、その次には、自分の稼いだお金で生活していけるようになることが目標でしょう。

強迫性障害の人は、こういう経験をしているからこそ、人の痛みがわかるはずです。細かいことによく気づくし、忘れないし、ほかの人が感じないものを感じているのだから、もしかしたら、何かの才能があるかもしれません。そういう良い面を、芸術やクリエイティブな方向に変えていけたら、何かができるかもしれません。生きている限り発見がない日はないと思います。その発見を自分の宝として蓄積していけば、どこか新たなフィールドでその才能を発揮できる時が来ると、心から信じています。

僕は今、よく外出しています。アパートにいても余計なことばかり考えてしまうので、どこにいればより良い発想が生まれ、強迫観念が出てきても冷静に対処できるかということを考えています。アルバイトもしています。背伸びをする必要はないし、人に何を言われようが、それはその人の価値観ですから、鵜呑みにしていてもきりがありません。そんなことより、日々を大事にして、今の自分にできることを精一杯全うする以外にない、と考えています。

そして、自分を理解してくれる年長の方々と出会いながら、そういう方々の話を聞き、自分のこれからの可能性を探っています。もっともっと、いろいろなことを知りたいのです。過去を振り返って就労や就学体験がないのなら、これから作っていけばいい。周りと比較したって、何も生まれない。人を羨むなら、人のやってきたことをしっかりと称える。つまり、目に映るすべての事柄を、目をそらさず受け止めていく。

実際には、たやすいことではないと思います。でも、己が己の未来を信じられなければ、今後の自分に好影響を与えてくれる方に出会うチャンスも逃してしまいます。そして、絶対に、振り返りたくもない過去の自分こそが、未来の自分をどんな時も支えてくれるはずです。

●南雲さんが取材を受けた『読売新聞』2005年7月15日付の記事。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20050728us41.htm

●南雲さんが取材を受けた『埼玉新聞』2007年2月7日付の記事。
http://www.saitama-np.co.jp/main/rensai/kurasi/kizuki/01.html