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【私のOCD体験記】 第3回 西濱順子さん
世の中に駄目な人など1人もいない


OCDは、強いストレスがあった後に発症することが多いという説があります。また、強いストレスは、どんな心の病気にもよくない影響を与えるといわれます。では、生まれ育った家庭の環境が、強いストレスに満ちている場合はどうなのでしょうか?
今回ご紹介する西濱順子さんは、子供に対して厳しい母と、兄の家庭内暴力という厳しい家族環境の中で育ち、予備校時代にOCDを発症しました。

1. 厳しい母のもとで
2. 兄の暴力が始まる
3. 不潔への恐怖
4. 家族に隠れて手洗いをする日々
5. 増していく手洗いと、将来への不安
6. 過敏性腸症候群になる
7. 薬の副作用で大学を休学
8. パソコン通信をきっかけに
9.  今、私が思うこと


1. 厳しい母のもとで

私が強迫性障害になったのは、いつごろだったのでしょうか。高校へ入学したころから、日常のあらゆる場面で、「どうしたんだろ?」と、今までになかった、行動、物事へのこだわりが出てきて、それがどんどん雪だるま式に増えていったように思います。「石鹸がきれいに落ちていない気がする」、「電気を何度も消し直す」など、今から考えると、これが障害の始まりだったのだと思います。

ただ、当時は、これらの行動に時間を取られながらも、生活全体を脅かすものにはまだ、なっていませんでした。しかし18歳のとき、この症状は重症化し、以後10年間、地獄の苦しみの日々を過ごさねばなりませんでした。

ここで、障害の苦しみの日々を語る前に、私がこの病に陥っていった原因と思わざるをえない、苦しかった子供時代の話をさせてください。私のOCD体験は、このことを抜きにはとても語ることができないものだからです。

私の母は極端な教育ママで、私たち兄妹(兄は1つ上)に対し、勉強をはじめ生活のあらゆる面で常にトップであること、完璧であることを要求する支配的な人でした。そしてそれが少しでも達成できないときには、厳しい体罰や暴言が待っていました。母は勉強以外のことはすべて人生の無駄と考える人で、私たち兄妹は小さいころからテレビ、漫画本などを見ることは一切許してもらえず、20歳を迎えるまで、娯楽にほとんど触れない生活を強いられてきたのです。父は、母の言うことに逆らわない、大人しい人でした。

毎日、母の顔色をうかがっての生活で、母が望む完璧さを目指して頑張り続けて生活をしていました。こんな日々を過ごすうち、この母の要求は、いつしか自分自身の考えのようになり、私は、いつもトップであるべき存在、完璧であるべき人間なのだと感じるようになっていたのです。


2. 兄の暴力が始まる

支配的な母への反発からでしょうか、兄は中学2年のとき母に暴力を振るうようになり、その状態はその後13年間続きました。兄の暴力は日々激しさを増していき、中学3年になるころにはひどいものになっていました。ささいなことから母を引きずり倒し、何十発も殴り蹴り続けました。振り上げたイスが蛍光灯に当たり、割れて落ち、食卓の皿は粉々に割られました。包丁沙汰になり、血が出ました。母の体は殴られて倍ぐらいに腫れ上がりました。

十数年にわたって絶え間なくこんな日々が続いたのです。24時間、恐怖に怯え続ける日々の連続でした。しかし、母は支配的な人でしたが、当時の私にとっては大切な人だったのです。「このままでは母が兄に殺されてしまう」。私は、人生すべてをかけて、母を兄の暴力から守り続ける生活を始めたのです。

毎日、友達とも遊ばずに学校から飛んで帰り、スーパーに寄って、母が兄に命じられて買い忘れていたものがあれば自分のお小遣いで買い、あたかも母が買ったように見せました。兄が少しでも暴れないことを願って、兄の気に入りそうなものを必死に選んだものです。兄が家にいるときは物音を立てないように気をつかい、時には母を殴ろうとする兄の前に割って入ったこともありました。そして、最終的には母を助けるために「殺人」を考えるところまで追い詰められました。

「私だけでもいい子でいよう」。そう思った私は、母の期待に応えるべく、高校は進学校への入学を果たしました。勉強のことしか知らない人生、家では凄まじい暴力と、生き地獄のような生活。私の生きる力を唯一支えていたものは、「成績がトップ」ということだけだったのです。でも、高校では、周りはできる子たちばかりで、トップでいることは不可能となりました。私は生きがいを失い、心はボロボロになっていきました。


3. 不潔への恐怖

そのころはもう、すべてに対して限界だったのだと思います。大学に現役で進むことができず、一浪することになった私は、予備校に通いはじめた年に、強迫症状、特に不潔恐怖が重症化していきました。この1年間は、日々悪化していく不潔恐怖に侵されながら、なんとか学業において完璧であることを最後まで死守しようと、苦しみ続けた1年でした。

予備校に通いはじめた当初は、以前より少し多く手を洗い、多めにトイレットペーパーをたぐり寄せる程度でした。でも、1カ月が過ぎ、5月の連休を迎えようとするころには、世の中のものがすべて汚く、まともに何も触ることができないという状態に陥っていました。一日中手洗いに追われる日々の始まりでした。

自分が汚いと感じる人のそばに近づいたり、誰かが近くでクシャミをしたりすると、自分の全身が汚れてしまった気がして、満員電車に乗れなくなりました。電車の吊り革も、手すりもつかめなくなりました。誤って触ってしまったときには、気が変になりそうになるのです。ホームのイスにも座れなくなりました。

でも、私は一浪までしたのですから、なんとか有名大学へ行かなければいけないと思い、毎日予備校へ通い続ける努力をしました。朝の身支度にも2時間半かかるようになっていました。満員電車に乗れないので普通電車に乗り、必死の思いで予備校へ辿りつきました。授業はとっくに始まっています。でも、すぐに教室に入ることはできず、通学中に汚れたと感じた手を洗わねばなりません。水道へ直行し、狂ったように洗い続けました。

指の先から腕まで、水道を全開にして洗いました。でも、いくら洗ってもきれいにはなりません。もう心身共に手洗いでフラフラになって、授業どころではありませんでしたが、私は一流大学へ行かなければいけないのだと、気持ちを奮い立たせて教室へ向かいました。でも、机もイスも汚くて、座ると全身が汚染されていくように感じられ、どうにかなってしまいそうでした。


4. 家族に隠れて手洗いをする日々

勉強も必死で頑張ろうとしました。でも強迫行為に時間をとられ、時間の確保も難しくなり、そのうちまともに勉強をすることができなくなっていきました。一日中手を洗い続けなければ生きていけない状態で、とても家族に隠せる状況ではありません。でも私は、必死に隠して生活を続けました。母や兄に話すことなど到底できなかったのです。完璧である私しか母は認めてはくれない。そのうえ兄は恐怖の存在です。そんな兄に知られるなんて、これほどの恐怖はありませんでした。

私は以後3年間、家族に症状を隠して生活せざるを得ませんでした。この3年間は、家族に知られずに強迫行為、特に手洗いが毎日十分にできるかどうかの、不安との闘いの日々でした。そのうえ、兄は依然としてすさまじい家庭内暴力の状態でした。私は自分自身が強迫症状でギリギリの状態なのにもかかわらず、母を暴力から守る生活も送り続けていました。

不潔への恐怖、家族に症状を隠しとおせるかという不安、そして兄の暴力への恐怖と、あまりにも過酷な日々でした。家族が寝静まった深夜に起きて、手を洗い続けました。それでも一緒に生活しているわけです。気づかれてしまいます。「お前、無茶苦茶手を洗っているやろ」と兄から言われたときは、恐怖が全身に走り震えあがりました。

もう汚くて仕方がないので、洗い続けたいのです。でも、家族がキッチンのある部屋の近くにずっといて、洗うことが十分にできないという日が何日もありました。十分に洗えなかった手であちこちに触ってしまうと、汚染が広がっていくような気がするため、ビニール袋を手にはめ、家族がいなくなるまでひたすら何時間も我慢し続けました。こんな中で、私は予備校へ通うことはおろか、勉強をすること自体もまったくできなくなってしまいました。


5. 増していく手洗いと、将来への不安

私は予備校に通うふりをして、街中をさ迷い歩きました。お金もなく、行くあてもありません。歩き疲れて棒のようになった足を休めようにも、イスに座ることすらできませんでした。私は、当時実家の所有で空家になっていたマンションの一室に隠れて一日を過ごすようになりました。一浪までしたのに勉強をしていない私、どこにも所属していない私。将来どうなってしまうんだろうと、不安で仕方がありませんでした。

母は、有名大学に行かない私など認めてくれる人ではありません。だからギリギリまで、「合格できるわけがない」と、母に言うことができませんでした。このころ家では、私の手洗いの状態に気づき始めた兄や母の監視が厳しくなり、十分に手を洗わせてもらえませんでした。私は朝、予備校へ行くふりをしてマンションに直行し、手を洗い続けました。

空き家でガスも止めてあったマンションは、水道も冷たい水しか出ませんでした。真冬の寒い日、暖房もない部屋で、氷のように冷たい水で何時間も手を洗い続けました。母や兄に監視されて、洗うことを制止されればされるほど、不潔に対する強迫観念は強くなっていきました。

きれいになるため、水道を全開にして、ゴシゴシ洗わねばならないのです。そうすると、水がその勢いで自分に向かって跳ね返ってきます。最初は平気だったのですが、いつしかその水が汚くなっていき、水の飛んだ服を身に着けておくことができなくなってしまいました。

ゴシゴシ手を洗わないと、いても立ってもいられません。でも、水が大量に自分に向って飛んできます。私は真冬の寒い中、服を脱ぎ、ゴミ袋を体にまいて洗うようになりました。寒くてガタガタ震えました。何時間も洗い続けたため、手の感覚はなくなり、あちこちから血が滲み出ました。腕は油分が抜け落ちて、舞妓さんの白塗りのような腕になってしまいました。でも、ハンドクリームさえ汚いものに思えて、使うことができませんでした。


6. 過敏性腸症候群になる

翌年の春、私は、いわゆる三流大学と言われている、偏差値の低い大学に進学しました。それ以来、母から二言目には「アホ大学の人」と言われるようになりました。でも私は、「居場所が見つかり、大学生活を楽しめたら、きっと病気になる以前に戻ることができる」、そう自分に言い聞かせ、必死で大学へ通い始めたのです。最初は友人も作り、勉強ばかりしてきた日々を取り戻していこうと頑張りました。でも、症状は悪化するばかりでした。

もし手を何時間と洗い続ける姿を他人に見られたら、絶対に「おかしい」と思われることは分かっています。ですから大学では我慢しようと努力しました。でも、我慢をすることは拷問そのものでした。我慢するのがあまりにも苦痛で、徐々に友人を避ける生活を始めるしかありませんでした。友人を作る能力もあるはずだし、欲しくてたまらないのに、それに反した行動を取らねばならないのです。せつなくて、寂しくて仕方ありませんでした。

こんな状態でも、家族に打ち明けることはできませんでした。そのころ、不潔恐怖のあまり、外で大便をすることができなくなっていました。そして、「もし外でしたくなったらどうしよう」という恐怖でおなかが悪くなるという、"過敏性腸症候群"という症状を併発してしまったのです。外のトイレに行くことができないのに、いつも下痢になるのです。あまりにも過酷な状況でした。

そんな身体の状態にも関わらず、卒業したい一心で大学に通い続けました。下痢をするので、朝も昼も食べずに通いました。また、食べ物を食べるという行為は、手や顔など体が汚染されるという感覚にもつながっていたので、食事さえもまともにとることができなかったのです。構内や通学途中に、何度も下痢になりました。七転八倒して我慢しましたが、どうしても我慢しきれずに、何度かはトイレに駆け込まざるを得ませんでした。そんなとき、私は泣きそうでした。外で、トイレットペーパーを使ってきっちり拭き取ることができないのです。どうにかなってしまいそうでした。

大学では人の目もあるため十分手が洗えません。その手でさわった教科書、ノートなども汚染されていく思いでした。もう自分の力ではこの症状をどうすることもできない。私は「精神科に行きたい」と思いました。でも、家族に内緒でお金もないので、病院へ行くこともできません。家では社会人になった兄の暴力が依然として続いていました。兄が家に帰ってくるころには猛烈な下痢に襲われました。一緒に夕食をとるなんて恐ろしくて無理でした。兄が帰ってくるまでに食べないといけないので、立ったまま急いで、喉に適当な食べ物を詰め込みました。朝も昼も食べてないにもかかわらずです。


7. 薬の副作用で大学を休学

こんな日々の中、2回生を迎えた5月頃、大学の相談室を経由して、やっと精神科に受診することになったのです。私は、病院へ行けば楽になれると信じていました。これから家族にも隠さずにすむし、何らかの治療をしてもらえると思ったのです。でも、もっと過酷な状況が私を待っていました。

母は、精神科に通い始めた私に向って「気ちがい、頭おかしい、死ね」と毎日言うようになったのです。命がけで兄の暴力から守り続けたはずの母からこんなことを言われるとは、あまりの仕打ちでした。そして、やっとの思いで辿りついた精神科なのに、病院では、5時間待って、先生は顔も見ず、話も聞かずに処方箋をくれるだけでした。医者に言ってもらえたのは、「この薬を飲んだら楽になる人もいるから。副作用は、喉が渇くくらいかな」という言葉だけでした。

でも薬は効かず、どんどん強いタイプの薬に換えられていき、数カ月後には「起き上がることができない、尿も生理もとまる、思考力もまったくなくなる」という寝たきりのような状態になってしまったのです。こんな私に向かって、母は「どんどん廃人なるんやな」と、さらに激しくなじりました。私は思考力もなくなっていたため、これが副作用のせいだと気づくこともできなかったのです。

家族の誰も私の味方ではなく、副作用のことを考えてくれる人はいませんでした。私の訴えに医者は耳を傾けず、さらに強い薬を出し続けました。起き上がることもできず、病院に行くことができなくなった私は、結果的に薬をやめることになり、後に、これがひどい副作用だったことに気づいたのです。副作用のために大学に行くこともできなくなり、その年は休学となってしまいました。翌年復学し、再び大学に通い続けました。

私は本当にひとりぼっちでした。強迫行為を隠すため友達を避け、一番味方になってほしい母からは暴言を吐かれ、誰とも口をきかずひとりぼっちでした。このころには、病院併設の面接室のカウンセリングに紹介されて通うようになっていたのですが、カウンセラーさんも私の味方にはなってくれる人ではありませんでした。

24歳で4回生となったとき、世の中はバブルの絶頂期でした。周りの子たちが次々に一流企業へ就職を決めていくなかで、私はやるせない思いでいっぱいでした。私は日常生活さえまともに送れないのです。この当時、私は母の前では元気にふるまっていました。母は私に向かって「そんだけ元気やったらもう治ってるんやろ、他の子が就職決まってても、あんた平気なんか?  さすが頭のおかしい人は違うなあ」と言ってきます。「平気なわけないやん」と心でつぶやきながら、母の前では何を言われても平気という顔をし続けました。涙でも見せようものなら、「気ちがいの涙」と言われるのですから。


8. パソコン通信をきっかけに

卒業後、就職もできず、家にいた私は、ずっと母に暴言を吐き続けられる生活を送っていました。無条件にすべてを犠牲にして愛してきた母から、徐々に心が離れていくのを感じました。病気がよくなる方法も分からず、毎日絶望感でいっぱいでした。しかし卒業して1年半がたったある日、ふと雑誌の小さな記事に目が釘付けになりました。「パソコン通信」が紹介された記事でした。

今はインターネットが盛んですが、これを国と例えると、パソコン通信は村社会規模のネット社会でした。家にいながらにして、文字で会話ができるのです。私の心は踊りました。外にもまともに出ることができず、人と接触のできなかった私が、文字で人とつながりを持てるかもしれないのです。私はその1カ月後には接続をしていました。

電子会議室では、私の発言にコメントがつきました。チャットでは、会話も弾みました。私の名前をみんなが呼びかけてくれました。そこではオフ会が定期的に開かれていると知り、ぜひこの人たちと会いたいという思いがつのりました。トイレも手洗いも大変でしたが、行きたいという思いの方が強くて、私はオフ会に出かけていったのです。本当に楽しかった……。ずっとつらかったけど、生きていてよかったと思いました。

そして何度目かに出かけたオフ会で夫と知り合い、結婚することとなったのです。結婚に向けて、このままでは離婚されてしまうかもしれないと、私は必死でした。1時間洗っているのを45分に、45分洗っているのを30分にと、血の滲むような努力をしました。夫には兄のことも強迫性障害のことも軽く話したことはありましたが、結婚した頃、私の症状はほとんど見た目にはわからない程度になっていたと思います。

結婚後、夫は優しく、暴力が耐えない家庭からも逃れられ、結婚生活は幸せで、子供ももうけました。夫は「今が大切なので、過去のことはいい」という態度です。でも私は、誰にも理解されない病気になり、就職も叶わずに、駄目な、人より劣った人間だという思いでずっと生き続けてきました。そんな私を変えてくれたのは、今から2年と数カ月前の、あるカウンセラーさんとの出会いです。

不潔恐怖や強迫観念のために育児が大変だった私は、子供の幼稚園の個人面談のときに、担任の先生に相談をしました。それがきっかけで、園長先生にそのカウンセラーの方を紹介してもらったのです。彼女は私の苦しみをすべて受け入れ続けてくれました。私は、そのことで「駄目な人間ではない、夢もいっぱいある」と思えるようになり、今、カウンセラーを目指して猛勉強をしています。


9. 今、私が思うこと

今思えば、私は本当にたった一人で、誰の力も借りずに、今の状態にまで治したのです。行動療法があるということも知りませんでした。誰も教えてくれませんでしたし、インターネットも当時はなく、そんなことが書いてある書物にも出会えませんでした。本当に自分自身でもすごいと思うのですが、私は自分で行動療法のようなことを考え、洗う時間を徐々に減らしていったのです。

最近、行動療法というものがあるのだと知ったときはショックでした。私は10年もかかったのです。もっと早く知っていたら、もっと早くに楽になれたのではないかと……。あるいは、家族が味方になって一緒に調べたり、闘ったりしてくれる環境だったら、こんなこともなかっただろうと思うのです。

私の今の状態は、強迫になる前が100とすると、60くらいの力しか出せていないと思うのです。不潔恐怖の感覚はいっぱい残っているし、こだわりも多いのです。でも、「この強迫観念はあったらあったでいい。完全になくなってしまえばどんなに楽かと正直思うけれど、残っていたって、私にはできることがいっぱいあるんだ」という思いでいっぱいです。今までマイナスだと考えていたことも、すべてプラスに生かしていきたいという思いでいます。

私が今、苦しんでおられる方に何かを言うとすると、「私がこうだったから、こうしてみたらいいんじゃない?」っていう具体的なアドバイスは言えません。私と他の方は環境も状況も違うので、すごく無責任だと思うからです。でも、あえて言うなら―― <病気は決して、あなたがおかしいからなったのではない。あなたの責任でもない。世の中に駄目な人間なんて1人もいない>っていうことです。



●西濱順子さんは、去る9月22日関東地区で放映のフジテレビ「FNNスーパーニュース」特報コーナーで、強迫性障害を取り上げた際に取材を受け、実名で顔を出して出演しました(地方局は10月上旬に放映)。不潔恐怖と闘いながら子どものおむつを換えるなど、OCDの女性が育児の際に抱える困難についてコメントをしました。
西濱さんは、ここに書かれたこと以外にも多くの体験をされています。それについては、これからブログに書き綴っていくそうです。ぜひご覧ください。


●西濱順子さんのブログ  「私は絶対に諦めない」
http://pink.ap.teacup.com/mayunoikizama/